メンドクサイ(面倒臭い)
最近特に引っかかりのある言葉についてお話ししたいと思います。
今までも私自身幾度となく引っ掛かりを持った言葉なのですが、今まではその言い方を頭から否定するという引っ掛かり方であったのに対し、最近の引っかかり方は、何故人はその言葉を軽々しく使ってしまうのか、そしてその言葉を使うことで本人はどうなってゆくのか、その言葉を聞いた人はどう変わってゆくのか、ということに変化してきました。
やろうと思っている事柄をしない時(事柄ができない時)誰でもなんとなく使ってしまっている言葉、あるいは思ってしまっている言葉です。
若い頃はやたらと多かった『めんどくさい』こと。朝起きること、食べること、出かけること、勉強すること、歩くこと、部活をすること、バイトに行くこと、家に帰ること、夜寝ること、明日のことを考えること、今日一日を振り返ること、電話すること、説明すること、言い訳すること、お願いすること、話すこと。
20歳台の後半からこれらの『めんどくさい』ことは徐々に減り、いつの間にかこれらのことを『めんどくさい』と思うことは少なくなったのですが、いまだにひとつだけ『めんどくさい』と思うことがあります。
それは入浴。
風呂に入るのだけは今でも『めんどくさい』(誤解されないように付け加えておきますが、それでも毎日入っています)。けれど、風呂に入ってしまえば『めんどくさい』とは思わないのです。それどころか風呂自体はとても好きで、かなり長風呂の部類に入ると思います。長い間、このことが自分でも不思議だったのですが、ある時風呂に入るまでが面倒臭いのだということに気づきました。それまでやっている作業(テレビだったり、新聞だったり、仕事だったり)を中断して、風呂場まで行って、服を脱ぐことが『めんどくさい』と思っていたのです。要するに、風呂に入るという立場を取るまでが面倒臭かったわけで、入るという立場(裸になる)を取ってしまえばなんともない、あとはただ入るだけなのですから。それに気づいた時、それまで他の多くの事柄に対して思っていた『めんどくさい』という感情がバタバタと消えていきました。立場を取るということは、自分のこととして正面から向き合うということなのでしょう。それができていないのに、”やらなければ”という思いがあると、人は『めんどくさい』と思うのではないでしょうか。
ちなみに何故風呂に入ることだけ未だに『めんどくさい』と思うのかと言えば、大学生になって親元を離れるまでほとんど毎日のように父親から「風呂に入れ!」「早く入れ!」と言われ続けていたのです。そろそろ風呂に入ろうか、と自分で立場を取り始めているとき(今から思うと、立場を取るのにそんなに時間がかかるわけはないのですが、それは毎日の悪循環が引き起こしていたもののようです)に「風呂に入れ!」と言われると、取ろうとしていた立場は一瞬にして立ち消えて『めんどくさい』がやってくるのです。そして、ブツブツ言われる中でイヤイヤ入る、という日々の連続。お恥ずかしい話ですが、あの頃沈殿してしまったことをまだ払拭できていないように思います。それが今でも風呂に入るのが「めんどいなー」と思う原因なのかもしれません。?
「立場を取る」
特殊な言い回しなので、ご説明しておきます。
通常「立場」というと、辞書(旺文社及び角川書店版国語辞典)には
- 立っている場所
(例、立場が無い)- おかれている地位や境遇
(例、苦しい立場)- ものの見方や考え方のよりどころ
(例、賛成の立場で意見を言う)
とあります。
このうち、① と ② には自主性があまり感じられず、知らないうちにそうなっていたり、止むを得ずそうなっていたりする、という受け身的な使い方で、日活や仕事上で使うのも大抵がこのパターンです。
それに対して ③ の使い方は、自主的であり、自分の意志で自分の“立ち位置”を決めるときに使いますが、日常生活で使うケースは殆どないでしょう。 ③ の例文のように、立場とは明確な態度をとった上で何かをしたり言ったりする時の基盤になるもの、と言ってもいいかもしれません。この例文において「賛成の立場を取る」と言い換えてみると、「立場を取る」という表現に納得していただけると思います。
日本文化が、責任の所在をあまりはっきりとさせず、みんなで乗り越えていこう、という形で今まできているために、立場というものを「取る」というより「取らされる」形で存在してきていると言ってもいいかもしれません。もちろん、これからの時代が今までと同じ形態であり続けるはずもありませんが・・・。
