「塾」の本質 ~総合学習塾とは~
一般的には「塾とは学業を高めるためのもの」ということになっていますが、当塾では本来の「志を高く育て上げる場」ということを最重要視しています。志が成長すれば自ずと学業も伸びるからです。志に見合った学業が身につく、と言ってもいいかもしれません。
子供たちが日々一番疑問に思っていることは、自分がしている体験が何を意味していてどこに結びついているのかということです。思った通りにいかない事の原因はどこにあるのか、注意された本当の意味は何か、ということです。
したがって私が生徒に対して行うことは
- リンク先がどこにあるのか
(その体験がどこに結びついてゆくのか) - 何と何がリンクしているのか
(その思いが何を意味しているのか)
これらの方向を指し示すことです。
そして、
- それらのことから生徒自身がどこに向かって進もうとしているのか
を生徒自身が考えるきっかけを作り出すことです。
したがって、やり方だけを教えて練習を繰り返させることや問題の解決方法自体を指し示すという指導は殆ど行いません(生徒の状態によってそのようにせざるを得ないときもたまにはありますが・・・)。
問題の中身は人それぞれ微妙に違い、問題をどうやって解決するのかはその人自身のものだからです。これは各教科の問題を考えるときでも同様です。
現代の教育の形
学校では小学校から大学まで学力だけを伸ばすカリキュラムになっているところが殆どです。それは人々が、学力が高ければ何とかなる、という戦後社会の刷り込みから抜け出せないからです。確かに昭和の一時期、そういう時代があったのは確かですし、社会の成長期というものはそうであるべきだとも思うのです。
けれども今は成長期を終えて、よく言えば安定期、悪く言えば停滞期です。
実際のところ現代の現実社会において、学力が高くても仕事ができなければ生きるのは難しいですし、逆に仕事ができても学力が低ければ生活するのが厳しい。そういう時代にだいぶ前から突入していますし、今後もそれはより顕著になっていくはずです。
ここでひとつ訂正しておきたい事柄があります。今使ってきた「学力」という言葉は、厳密に言うと「学力」ではなく「処理能力」です。したがって、正確に言い直すと、処理能力が高くても仕事ができなければ生きるのは難しいですし、逆に仕事ができても処理能力が低ければ生活するのが厳しいということになります。
処理能力を上げるだけならば、やり方を覚えて、それを繰り返し練習する。多少の個人差は出ますが、これを繰り返していけば概ねみんな処理能力は上がります。そして概ねみんな同等の処理能力があるので、それぞれの違いを明らかにするために偏差値で割り振る。だからみんな偏差値を気にしながら生きる。
実は、やり方を覚えてそれを繰り返し練習して身につく能力に大差はないのです。海外の人たちは、日本人の殆どが一定レベル以上の能力を持っていることを知っています。これは江戸期に始まり現在も脈々と続く我が国の教育制度の賜物とも言えます。しかしその中で生きる我々日本人にとっては”差”が必要になります。そして偏差値を見せられてみんなそこに差を感じ取るのです。みんなと同じであるという安心感と、人とは違うという欲求とが複雑に絡み合っている人たちを納得させるのです。
けれどもこれらの中に本当の「学力」は存在しません。偏差値を気にするあまり、処理能力を向上させることに偏りすぎてしまっているのが日本の現状です。IT化が進み、処理能力ではコンピューターに遠く及ばない時代になっているのに、いまだ処理能力だけを向上させようとする偏った教育をしていることに危惧を覚えます。
一部の大学から徐々に変わり始めてはいますが、教育制度全体が処理能力向上偏重からシフトできるにはまだまだ時間がかかるでしょう。しかしその旧態依然とした制度の中をまだまだ多くの人たちが通り過ぎてゆくのです。これから先ももっといろいろな形で歪みが顕在化してゆくはずです。
”気づき”と”学び”
真の学力とは、処理能力もあるし、仕事もできる、ということになるでしょう。
処理能力を上げるのが自分自身を磨くことであるのに対し、仕事ができるようになるには他人との関係性を磨くことが重要になります。処理能力の向上は全体授業で行えますが、仕事をできるようにするのに全体授業はなす術がありません。せいぜいモラルやルールを教えることができる程度です。また、全体授業で処理能力を向上させることができると言っても、全体の流れについていけなくなってしまったらアウトです。
平成の前半までは、個別指導は全体授業についていけなくなったときのお助けのような存在でした。しかし、今や個別指導には仕事ができるようになるための他人との関係性を磨くサポートが託されています。人間関係をうまく構築できない若者が増えた、とよく言われますが、青少年期の重要な時期に躓いた疑問に正面から取り組み、そこから自力で”気づき”を得ることができれば他人との関係性は著しく向上することでしょう。そこには本当の”学び”が存在するからです。けれども、ひとりで「躓いた疑問に正面から取り組む」ことほど難しいものはありません。親がいるじゃないか、と思われるかもしれませんが、青少年期の躓きを親と共有できる子供は相当に稀です。だったら、友達がいるじゃないか、と。確かにそれで救われる場合はあるでしょう。しかしそれは、躓いて立ち止まった後に再び歩き出せるようになる、というだけで、本当の”気づき”や”学び”に至れることはこれまた稀です。
私が子供たちを指導する上で一番重要視しているのは、マイナスの状態をゼロの状態に戻すことではなく、ゼロを飛び越えてプラスの状態になってもらうことなのです。
躓きは成長するためのシグナルなのだ、と。ピンチはチャンスのために訪れるのだ、と。
さて、躓きやそこから派生する疑問は、内容もタイミングも人それぞれです。同じ体験をしてさえ、そこから受けることがらは人それぞれ違うのです。当たり前の話です。けれどそれらを十把ひとからげにして指導しようとする大人がたくさんいることも事実なのです。そもそも現代の指導者たちは自分自身がそういうやり方で何とかなってきた時代を生きてきた世代ですから仕方ないともいえます。それにまとめて指導するのは、指導する側からすると手間隙をかけずに行えます。しかし今や、そのやり方では上手くいかないケースの方が多くなりつつあります。
学校教育や一般の塾が、処理能力の向上に特化した存在であるならば、それ以外の部分を少人数塾が賄うしかないのです。生徒一人ひとりの躓きに立会い、そこから得た”気づき”に寄り添い、その気づきに息吹を与え、生徒自身がその気づきから何かを学び取るまで見届ける。それが少人数塾で指導するものの務めであると考えています。
塾長プロフィール
真の学問へのアプローチ 学問とは、未来に待ち構える多くの出来事、過去に経験した多くの出来事、それらの物事を自分という名の器でごった煮にしたカオスなスープの中から、純粋なインゴット...
続きを読む「真の教育」を目指して
絵空事かもしれぬが、 どうしても 目指さずにはいられない 世の中を見渡すといつのまにかすべてが 分業制になり 人生というある意味において 長い道のりでさえ 切り売りの...
続きを読むお気軽にお問い合わせください。03-6909-9782※不在時はメールにてご連絡ください。
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