「ワカラナイ」が「分かる」ということ
以前ある生徒が、
「自分は『割合(の概念)』が全然分かってなかった、ということに初めて気がつきました。今まで理解したつもりで解いていたんだけど、そうじゃなかった。分かったつもりでいただけなんですね!」と、嬉しそうに話してくれたことがあります。
※「割合」は小学校5年生の算数の授業で学習しますが、非常に奥の深い内容で、概念と言っても差し支えないでしょう。当然ながら5年生の段階ではその表面的な演算方法を身につけるだけで終わってしまいます。中学生の数学でも応用問題の中に含まれてはいるのですが、「割合」単独で指導を受けるという機会は残念なことに2度と訪れません。したがって、ほとんどの大人は「あー、あの、なんとかをなんとかで割るってやつでしょ。なんとなく覚えてるよ。」「でも苦手だったなー」みたいな反応になってしまいます。
割合の概念にまで自力で辿り着ける人は、それだけで充分に<理系>の素質があると言えます。また、商売や簿記・経理をなりわいとしている人たちは当然ながらそこまで辿り着いているでしょう。
要するに、数学とは概念を学ぶ(ここでの「学ぶ」は、自力で辿り着くという意味であって、他人に教えてもらうという意味ではありません)学問であり、小学校での算数や中学校での数学はその地点に進む前の準備期間・練習期間ということになります。したがって、中学生や、概念に辿り着いていない高校生が、「数学なんて、社会に出てから必要ないよー」というのは当然と言えば当然ですが、でもそれは「私はまだ何も分かっていません」と言っているのと同義なのです。
私は常々、理系に向いていない人間なんていない、と考えています。概念というものは年齢を重ねるにつれて誰にでも自然に身についてくるものだと思います。
でも学生時代のうちに概念を形成するにはやはり数多くの問題演習が必要なのでしょう。そして概念に到達する前にあきらめてしまった学生は理系には進まないでしょう。世の中では、理系離れが加速している、数学や理科が好きだという生徒が減っている、技術大国日本の将来が危ぶまれる、などとかまびすしく叫ばれていますが、練習を繰り返せば必ず概念に到達します。しかし練習を繰り返せる事柄は人生の中でそれほど多くはありません。中学までの学問では数学だけ。学問以外では、スポーツ全般、囲碁・将棋・オセロ・チェス等のゲーム類、音楽・絵画・書道・陶芸等の芸術類。ただし、学問と違いスポーツやゲームは楽しむためだけに行うことがしやすいので、その場合には到達するのは難しいと思います。余暇として行うものではなく、部活などの継続性のあるものや自分自身がとことん打ち込んでいるものの場合に概念に到達する可能性は格段に高まります。そこに到達した人はみな、理系の素質を開花させた人と言えるでしょう。
前出の生徒の場合も、自分では意識していないうちに練習を積み重ねていたのかもしれません、そしてあるとき何かのきっかけで、それまでの自分が「ワカッテナカッタ」ことが「分かった」のだと思います。
自分でやるから塾なんか必要ない、と我流で勉強している子供がいるとします。ところが次第に行き詰まることが多くなり、ついに塾通いを決心するとします。それまでは必要性を感じていなかった塾ですから、暫くの間は自己の中にあまり変化は起きません(必要としていなかった過去の自分が邪魔をして変化が起きていることに気づかせてくれない)。ところが続けているうちにだんだんと気づいてきます、学ぶことの純粋な喜びを。この人は、間違いなく「分からない」ことをひとつ減らせた人だと言えます。しかしそれは塾に来たから減らせたわけではなく、塾に通い始める前、このままでは無理そうなので塾に通おう、と決心したその瞬間にすでに減らしていたのです。そして通い始め、通い続けているうちに「ワカラナイ」こともひとつずつ減らせるようになる。そしてさらに気づきます、学びたいという自分に。そして新たに気づくことでまたひとつ「分からない」を減らしていく。これから先、本人が「このくらいで、もーいいや」と思わない限りどこまでも繰り返し続いていくことでしょう。
人は学ぶために生きている、学んでいる自分に出会うことの喜びを得るために生きているといってもいいのかもしれません。分かっていなかった自分に気づいたときの人の表情は、きれいに透き通ってキラキラと輝いています。その輝きは、進む先に光明が得られたことへの喜びのかもしれません。
