「ワカラナイ」が「分からない」

「ワカラナイが分からない」をもう少し正確に表現するならば、

「わからないことがわからない」、「何がわからないのかがわからない」ということ。

「ワカラナイ」は、知識を持ち合わせていない、知らない、ということ。

「分からない」は、意識していない、気づいていない、ということ。

したがって「ワカラナイが分からない」とは「知らないということに気づいていない」ということになります。

今回は、わからないことがわからない、わからないことがわかる、ということについてお話したいと思います。

まずは、毎度の私の高校時代の話から―

話は高1の1学期の英語の授業のときに、「英語なんて必要ないなー(日本語ができれば十分だ)」と思ってしまったところから始まります。すると立て続けに、「古典も歴史も必要ない(過去のことを知ったところでどうなるものでもないし)」「数学なんて必要ない(実生活においては算数ができればそれで充分)」・・・と、殆どあらゆるものを切り捨てるようになってしまいました。そして、またたく間に「ワカラナイこと」が何なのかさえわからなくなっていました。その結果、「わからないことがわからない」ので先に進むことができなくなったのです。

私の高校時代から20代半ばまでは実に多くの「わからないがわからない」が存在していました。勿論その時点では存在していることすらわかっていませんでした。なにしろ、わからないがわからないのですから。

そういう状態のままで将来を眺めようとしてみたところで、形のあるもの・ありそうなものが見えるはずもありません。ちょうど、偏光板のスリットが縦だけでなく、横にも斜めにも縦横無尽じゅうおうむじんに入っていて、向こう側が霞んで見えない、という状態だったように思います(偏光板は、光に波の性質があることを確めるための実験に使う理科の実験用具です。偏光板を通すと縦じまとか横じまとかの限られた光だけを見ることができます)。当然ながら先に進むことなど全くできませんし、先へ進もうなどと思いもよりません。

わからないことがわからない、という状態が長く続くと、その状態が普通で、その状態でいるのが当たり前と思うようになっていますから、できない、できるはずがない、やれない、やりたくない、そして、見えない、見たくない、見えるはずがない、という八方はっぽうふさがりの日々を生きることになります。これは、辛いです。そして、何故辛いのかがわからないから、本当に辛い。

さて私がお伝えしたいことは、「ワカラナイが分からない」の「分からない」の方、すなわち意識されていない、意識していない方についてです。人はたとえ知識が不足していたとしても、そのことに対する意識が芽生えさえすれば自分から進んで知識を吸収しようとするでしょう。何がわからないかがわかった時、人は

「やっと気づきましたよ!これだったんですね!」と叫ぶでしょう。

この「やっと」という言葉の重みは、その人が今までわけもわからず抱えてきた辛さの年月の重みです。何かわからないけど辛い。この辛さは何だろう。でもわからない。そんな日々を続けてきた人がわかっていないことに気づいた時、思わず「やっと」と口にするはずです。

私にとって初めて「やっと」が訪れたのは、20代の後半です。「この体の辛さは、背骨がそんなに歪んでいたからだったんだ―、やっとわかった」

勿論、わからないがわかった時点では、意識が芽生えただけでまだ知識はないわけです。ですから、意識出来るようになったからといって、いきなり物事が好転するわけではありません。そこから知識を積み上げるという長い道のりが始まるわけですから、逆にきついくらいです。特に今まで、全く目を向けていなかったことに対する知識ですから、量的にほとんど持ち合わせていませんし、質的にも表面だけをなぞった知識のために勘違いや思い込みがあり、それらに気づいて修正していくこと自体もかなりの苦痛を伴うでしょう。しかし、ここを通らなくてはその先はないのです。

20代後半のあの時以来、幾度「やっと」と口にしたことでしょう。自分の身体の状態から始まり、生活や学習や教育、そして生き方に至るまで、数多くの「やっと」に出会えました。これからも今まで以上に多くの「やっと」を口にしていくことでしょう。

あの頃、嫌いだ、苦手だ、と思い込んでいた感情は今はありません。英語も古典も歴史も数学もすべて身近に存在しているし、だからこそそれらの学問が何故存在しているのか、それらの学問を積み重ねていくことで何が得られ、何の役に立つのか、ということも見えてきました。

「ワカラナイ」ことはどれだけたくさんあってもよいと思います。でも、「分からない」はできる限り減らせるように、何歳になっても心がけたいものです。自分では日々減らす努力をしているようでいてなかなか減らせない。分かっていないことに気づくのは本当に難しい。子供達と接している中で気づかせてもらうこともしばしばです。

「ワカラナイ」ことが「分かった」と、ひとつ意識できれば、そのときその人は今までのステージを終えて次のステージに進むということになるのだと思います。