ピンチの中にチャンス在り
よくスポーツの世界では、ピンチに立たされてそれを何とか凌いだ後には必ずチャンスが巡ってくる、と言われます。例えば野球で、ノーアウト満塁でその上4番バッターというピンチを三振とゲッツー(=ダブルプレー)で0点に抑えると、その次の攻撃では軽々と3点、4点と取れてしまう。例えばサッカーで、コーナーキックを何本も連続で撃たれて、それでもゴールキーパーのファインセーブやらゴールポストに助けられるやらで何とか乗り切ると、クリアボールがそのままカウンターになって相手ゴールに突き刺さる。あるいは、テニスで、バスケで、バレーで、・・・。スポーツの面白さは、やるにしても見るにしても、この攻勢と劣勢の入れ替わりがはっきりと感じ取れるところにあるのかもしれません。
私も学生時代、運動部に所属していたので、「ピンチのあとにチャンスあり」を何度も経験しましたが、当時は、それが起こるのはスポーツの世界特有の現象であり、またその原因は単に運気の流れというか自然現象というか、要するに人智の及ばないものだ、と勝手に決め込んでいました。
ところが社会に出てみると意外な事に、一般生活のそこここに「ピンチのあとにチャンスあり」が存在していました。24歳で新卒入社したときの新人研修で、製造部長が「ピンチのあとにチャンスあり、ということをずっと忘れずに仕事をしていきなさい」と話してくれたのが最初でした。それ以来、会社で、プライベートで、そして自分自身の人生の中で、何度となくピンチとチャンスに出会ってきました。もちろん生活の中においてのことなので、スポーツのようにめまぐるしく変化するわけではないのですが(その分、ピンチの時期が長くて辟易としてしまう事もありましたが・・・)、やはりピンチの時期が続くとその後に必ずチャンス到来、となるわけです。
で、だんだんと気づいてきたのです。スポーツの世界ではピンチとチャンスが目に見える分かりやすい形で存在していただけで、一般生活の中にも同様に存在しているのだ、ただ見えにくいだけなんだ、ということに。
そして40代になってさらに、「ピンチのあとにチャンスあり」の原因にも思い至れるようになってきました。きっかけは、「ピンチを何とか凌ぐとその後にチャンスが巡ってくる」の中の特に「凌ぐ」という言葉でした。「凌ぐ」という言葉は「しっかりと把握して、きちんと受け止めて耐えるところは耐えて、きっちりと乗り切る」という意味を含んでいると思うのです。ピンチになったときに、ただ何となくやり過ごすわけでもなく、かといって必要以上に落ち込んだり悩みすぎたりするわけでもなく、その時点で自分が置かれている状況を正確に認識してその時点でできる限りのことに取り組む(もちろん、状態の良い時と比べると大したことはできないのですが、それでも、その時点でできるだけのことはやる)ことが、「ピンチを凌ぐ」ことであり、「ピンチのあとのチャンス」を呼び込むことになるように思います。そう考えると、「ピンチのあとにチャンスあり」の原因は人智の及ばないものなのではなく、人智そのものなのではないか。単なる気の流れなのではなく、自分が創り出すパワーに因るのではないか。
そういうふうに考え、そういう目でもう一度スポーツを見てみると、なるほど、ピンチに立たされて、しかもそれを自分自身のものと受け止めて立ち向かっている選手は崇高なほどに気高い表情をしています。判官びいきという言葉がありますが、人々はその気高さに心打たれるのではないでしょうか。そして、そのピンチを乗り越えて新たなチャンスをつかんで欲しいと願うのでしょう。
20年以上前、横綱『北の湖』がメチャクチャ強かった頃、見ていても何の感動もなく憎たらしいだけでしたが、休場の続いた後の引退がかかった場所で全勝優勝をした時、心の底から感動したことをとてもはっきりと覚えています。嫌いだった人(物)でも好きになることができるんだ、ということを初めて学んだことと合わせて深く印象に残っています。あのときの『北の湖』はギリギリのピンチを完璧に自分のものとして受け止めていたのだと思います。
さて、子供たちを見ていてもちょくちょくピンチは訪れるようです。その都度、愚痴を言ったり溜息をついたりしながらも、子供たちは前向きに進んでいこうとします。そして、ピンチを乗り越え、新しいチャンスをつかみ、そしてまた次のピンチに出会い、乗り越えてゆく。そんな子供たちの姿は、私にとても大きな感動と生きがいを与えてくれます。そのたびに胸の内で深く深く感謝するのです。
そして、いつも思うのです。「ピンチのあとにチャンスがある」のではなく、
「ピンチの中に(もうすでに)チャンスは存在しているのだ」と。
